昭和四十五年二月七日 朝の御理解

X 御理解第九十五節 「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」


 信心の常識と申しましょうか。いわゆる常識一般ですねえ。そうゆう事が段々分かり、身についてまいります。これは、特にお取次に携わる教師に対する御理解だろうと思いますが、信者でもそうです。
 段々、信心を致しておりますと、いわゆる、お道の信心の常識と、又は、み教えの内容も段々深く、いわば、深く又は広く金光教の信心とはと、それを話も出来るし、又深い話を聞いても、段々分かるようになってくる。
 その頃から、私は、信心を受け売りするようになる。信心の常識が身に付いてまいります。いわゆる常識一般、又は、宗教一般と言うてもいいでしょう。金光教の信心はかくで、仏教はこうだ、キリスト教はこうだと、宗教に関する事ならば非常に、まあ信心が詳しくなる訳ですね。詳しくなりますから、その事が人にも話して聞かせられるようになる。いわゆる、受け売りをすることが出来るようになる。
 私は、今日は、商法にしてはならぬぞというところは、いわゆる受け売りではいけんぞという事だと。受け売りをする。これを、今日は商法と、商法にしてはならんぞとおっしゃるところを頂きたいと思います。
 普通、これは、例えば、教会なら、教会の看板を上げますと、やはり金光大神の御比礼というか、金光大神のお徳によって信者が出来てまいりますし、ぼつぼつ、そこの教会が維持出来るようなおかげを確かに何処でも頂いております。
 教会の看板を例えば、久留米地区に於いてもそうです。教会の看板を上げたけれど〔も〕、途中でしまえたと言う所は一軒もありません。やっぱり、それぞれにちゃんと看板相応の、言うなら商売繁盛をしております。
 ところが、その商売繁盛というか、繁盛じゃなくて、そこの教会が維持出来るという程度。そこの教会の人達が、不自由なく生活が出来るという程度。それ以上の例えば、活気と言うか、繁盛がないとするならね、それはもう既に、神様を商法にしておるのと同じ事です。
 神様のおかげで食べちいきよると。もう、神様のおかげを頂かなければ食べる事も着る事も出来んのですけれどもです、そうゆう意味ではなくてです、ごじゃごじゃ何とか言うとりゃ、それで人が集まって来る。それぞれ、たけだけしそうにお供えをする。それが、そこの教会の維持費に当たる、生活費に当たると言ったような程度の教会が多い事か。
 これなどは、私、例えば、言うならば、一通りの、あの信者さんはなかなか熱心、熱心と思いよったら、金光様の先生にならっしゃった。御本部で一年間なら一年間稽古をして来て、いわゆる宗教一般は勿論、お道の信心の常識を身に付けて来なさったと。いわば、修行して来なさったと。
 ですから、病気でお参りして来た信者には、こういうお話をしなければならん。人間関係では、経済問題の時は、こういうお話、こういう御理解をして聞かせなきゃいけない、と言ったような事を、(笑)一通り習って来る。
 いわば、自分が身に付けた、いわゆる宗教の常識とか、お道の信心の常識を伝える。
 いわゆる、受け売りをする。なる程、お話はそうですから、なる程、そうだなと合点がいくようにも、人に〔お〕話が出来るようになる。いわゆる、受け売りが出来るようになる。
 だから、そこ迄、そこ迄で信心が成長しないとするならです、これは、もういよいよ商法にしておる、神を商法にしておる訳であります。
 だから、これはお道の教師だけではありません。信心、信者でもそうです。お道の信心の常識一般の事が、段々身に付いてまいります。それこそ人の知らん話でも、教団の事について詳しく知っておる。
 勿論、ですから、例えば、深い信心のお話に限っては、どんな深い話をしても、あの話は浅いとか深いとかというような事も聞き分けが出来るようになる。
 だから、その程度で、私は信心がですね、例えば、金光様の、まあファンとでも申しましょうか、〔ファン〕になっただけではね、自分も助からないでしょう。
 なる程、食べてはいくでしょう。まあ、かつがつのおかげは受けていきましょう。それは、教会が立ち行くように金光様の信心を頂いとりますと言や、これは、もう何とはなしにですね、何十年信心を本当に続けておる人ならばですね、信心は進まんでも何とはなしにおかげ受けておりますよ。自分の周囲を見て御覧なさい。止めておるなら、いざ知らずだけどね、もう続けておる限り、もう何とはなしに、確かにおかげを受けとります。
 例えば、〔そ〕んなら教会なら教会がです、それはやっぱりいろいろ潰れるような教会も後を継ぐ教会がないといった所も随分あるにはありますけど、まあまあ例えば、久留米地区なら久留米地区で申しましても、そういう教会はないでしょう。やっぱり何となしに立ち行っていますよ。立ち行っているけれども、只、その教会がですね、まあ言うならば、マイホ-ム的な信者であったり、教会であったにすぎないだけの教会であり、信者であるというのが多いように、私は思うです。
 ですから、その程度のおかげを受けておる程度ならばですね、もう、私は、まず神を商法に使うておるというふうに思わなければいけないと思うのですね。
 そこでです、そこで、私は思うんですけれども、私どもの信心の内容というものはね、どうゆうふうな状態であるかということを、一遍打診してみなければいけない。そして、これならば商法に使っておるのじゃない、と言うことになってくる。
 私、その事を今日頂きましたらね、信心の心得の中に、信心の心得、御神訓です、一枚はぐったところに「我情我欲を放れて真の道を知れよ」と、いうのがありますね。信心の心得という、それを一枚はぐりましたところ、そこに一番始めに「我情我欲を放れて、真の道を知れよ」と。
 そこの一番最後のところに「心配する心で信心せよ」とあります。「心配する心で信心せよ」、この二つを頂くんですよ。だから、私共の信心内容の中にですね、この我情我欲を放れて真の道を知ろうとする意欲が有るや否やという事です。
 真の道というのは、話を聞いただけじゃ分からん。宗教一般が分かったり、お道の信心の常識が豊になっただけでは分からん。真の道というのは。その真の道を分かろう、真の道を分かろうと、誰でもだいたい、お道の信心しとる者は思うし、考えよるごたるふうじゃあるけれどもですね、我情我欲を放れてという精進をしよらんです。
 我情我欲を放れてという精進を、自分が、果たして、どれだけ我情我欲を放れていく事に精進させて頂いておるかという事。そこから分かってくるのが、真の道なんだ。真の信心がしたい、真の道が分かりたい。これは、お道の信奉者である限り、皆んな言います。そんなら、我情我欲を取る稽古を一生懸命せじゃこて、という事になる訳です。
 もし、そんなら、これは、信者、教師を問わずですけれどもです、我情我欲を取るという事は、どうゆう事かと。我情我欲を取る、それを放れていくとゆう稽古とは、どうゆう事か。
 そうゆう例えば、精進がです、なされておるかどうかと、そこからね、そこから今迄は知らなかった、新しい道の展開がある。そこから、いわゆる真の道が分かってくる。もう、昨日の信心ではなくて、今日の信心だ。
 私は、さらな信心とはね、我情我欲というもの、我情我欲を放れる事に精進させてもらう。そこから、真の道が少しづつ分かっていく。その少しづつ分かっていく、その少しづつが、さらなもんだと思うのです。
 眼〔を〕覚まして、冷たい水で顔をじゃぶじゃぶ洗うて、はあ今日も新しい気分で、ひとつお参りさせてもらうぞと、新しい気分で仕事をさせてもらうぞと、なる程、これもさらなものでしょうけれどもね、それは、只、普通で言うさらな気分であってですね、さらな信心とは言えない訳です。
 さらな信心とは、私どもが、我情我欲が一分づつでも一厘づつでも、そこに取り組んでですよ、取り組んで、一分づつでも一厘づつでも進展したところからです、新しい道が見えてくる。それが、私は真の道だと思う。
 だから、そこんところをです、人に伝えていくのならば、もう受け売りではないでしょうが。お話を頂いた、お話を行じた、そこから生まれた体験、そんならばもう受け売りじゃないでしょうが、自分のもの。
 私は、商法という事はね、受け売りという意味で今日は皆さんに聞いて頂いておる。只、受け売りが、どんなに上手に出来るようになっても駄目だと。それはまず、自分の信心は、神様を商法にしておるようなもんだと。
 私の信心の内容の中にです、その我情我欲を放れていこうとする精進が、意欲が、どれ程あるかと。そして、事に当たり、又は、そのつどつどにです、これは自分の我情ゆえにこうゆう事になっておる。自分の我欲ゆえに、こうゆう事に行き当っている、と分からせしてもろうて、そこからね、我情を外していく事に、我欲を外していく事に、精進させてもらう。
 本当に、自分がこうしたいという、これはもう我情です。だから、こうしたいと思うておるのに、こうならんから、もうイライラする訳です。そこで、ああほんなこと、こういう我情は取って任せてお縋りしようという気になってくると、これは楽になる。そこからです、おかげが受けられる。
 この頃、昨日、一昨日ですね、平田さんがおみえられてからのお話の中に、「いくら御用しよったっちゃ自分かた〔の〕うちん事が心配になる時は、おかげにならん」ち言わっしゃた。
 いかに、例えば、一にも神様、二にも神様と言うて、神様と言っておってもです、うちの事が心配になるような事では、おかげにならん。うちの事は、どげん心配になっとっちゃ忘れてしまう位な時には、必ずおかげ受けとる。道理です。そこでです、そこで、「心配する心で信心せよ」ということになる訳なんです。
 様々な問題、難儀を持っとりゃ、それが気にならん事はありませんものね。難儀という難儀、問題という問題、それこそ夜も眠むられんように心配になる。そこで、「心配する心で信心せよ」と。
 眠むられんからち言うてから、ちゃんと寝床の中で眼どんばかりパチクリさせといてから、心配ばっかりしとったちゃ、何にもならんという事。本当に眠られんなら、夜もなからにゃ夜中もなか、外へ出て天地を拝むがいい。それでもいかんなら、歩いてでもいっちょ合楽に参ってくるがいい。一生懸命、御祈念をするがいい。心配する心で信心せよと。
 そうゆうね、本気での修行が出来てくる時にですね、確かにそこからね、その心配が段々薄らいできてから、無くなってくる。いわゆる、お任せするという心がです、もうお任せするという心が生まれてくる。諦めじゃない。もう、どうも仕様のなかけんで任せるというのじゃなくてですね、だから、心配する心で信心をする、心で信心をするとゆう事は、そうゆう功徳があるのです。
 先日、福岡の池田さんから、電話が掛かってまいりました。伊万里におられた時分に、自分のお導きをした方が信心のいろんな相談、又は、難儀な相談をなさる。それを自分が取次がれる。ここにお導きをして参っても来られる。ところが、福岡と伊万里に離れたもんですから、それでも、やっぱり心配ごとの時には、必ず池田さん所に電話が掛かってくるとゆう訳なんです。
 「先生、只今、◯◯さんから、こうゆうような電話が掛かってまいりました。お話を逐一聞かせて頂いておりましたら、なる程、心配になりそうな事なんです。けれども、私は電話で申しました。◯◯さん、あなたがね、そうして心配でたまらないとゆう事は、まあ修行不足と思いなさいと言うた」と言うのです。そしたら、すぐ又、電話が掛かってまいりましてね、「今日から一週間断食をさせて頂くから、あなたから合楽にお届けをして下さい」と言うて、電話が掛かって来た。又、池田さんは、その事をお願いされた。さあ、言うたもんの自分もやっぱ心配なんです。
 そこで「先生、◯◯さんが一週間断食をされるそうでございますから、私が、その心配があるのは修行不足だと申しましたら、そうして電話が掛かってまいりました。そこで、あの人だけにはさせません。私も一週間おしょうばんをさせて頂きますから、どうそよろしゅう」とゆう電話が掛かって来た。
 池田さん自身がです、もうそれこそ心配で心配でたまらない事をです、それは修行不足のせいだと御理解頂いてです、修業させて頂くところから生まれた安心。伊万里から長靴をはいて歩いて参って来た婦人なんですよ、椛目時代に。自分が、そうゆうような一生懸命の修行させて頂くところから、今迄の心配が消えた、無くなった。そして、おかげを受けたとゆう体験を持っておるから、それが言えれる<んです>。
 ですから、私共の、例えば、心の中に、自分の信心は、神様を商法に使うておるような事はないだろうか。なる程、詳しくはなった。深い話が分かるようになった。どげな難しい話でも、信心の話に限っては、こなす事が出来るようになった。がです、只、何とはなしにおかげを受けておる。一家が立っておるとゆうだけのおかげにすぎていないか、とするならばです、それは、まあ、まあ、受け売り信心ですから、いうならばもう、商法に使っておる、神を商法に使っておる信者と思わなきゃならない、教会と思わなければならん。
 けれども、その内容がです、絶えず、いつも問題に直面するたんびにです、修行意欲が出るだけではなくてですね、いわゆる我情我欲を放れてとゆうその事に、一生懸命努めておる。これは、我情のせいだ、我欲のせいだと。そこからね、真の道を知れよとおっしゃる、その真の道が少しずつ分かって来る。その真の道が伝えられる。これは、もう受け売りじゃないでしょう。それを、まじえて受け売りするをする。これなら、まあいいですね。
 私共の場合は、もう受け売りばっかり。神様から頂いたことを、皆さんに伝えるのですから。だから、その受け売りを私もやっぱりしておる訳ですけれども、その内容がです、私の場合いつも、その我情我欲というものに本気で取り組んでおるとゆう事。場合には、もう血みどろになって取り組んでおるです。そのことに、出来たり、出来なかったりじゃからなんです。
 これではね、信者が助からんなんてゆうもんじゃなくてです、それでは、大坪総一郎、私自身が助からんからとゆう事を知ってるからなんです。
 そして、私の発見とでも申しましょうか、ここの御理解のいわば、生粋といったようなものは、やはり私の信心から生まれてくる発見なんです。いうなら、真の道なんです。それを、お伝えさせて頂いておるとゆう事はです、私が商法、商売でここに座っとるとじゃない、とゆう事とになる訳なんです。
 だから、私のそうゆう信心姿勢とゆうものが崩れた時には、やはりもう形は同じであっても、私は商売、もう商売、商売で座っとるとゆう事になるのですよ。
 なる程、それでも立ち行く事は立ち行くでしょう。金光様の看板を掛けておるから。だから、それではね、神を商法にしてはならんぞ、とゆうことに反しておる訳ですから、進展がないだろうと思います。いや、ありませんでしょうね。
 それは、周囲を見て、それを感じます。そらもう、お話だけはもうピシャリ、そらもう、なる程深い話は出来る。本当にもう哲学的な深い、素人じゃ分からんごたる話をしなさる。又、それを聞いて分かる、とゆうだけではいけない。それは、受け売りだから、自分のものではなしに、受けて売っておるだけだから、それは商法だとゆう事になる。
 私共が、我情我欲に本気で取り組んで、そこから、真の道を知れよとおっしゃる、その真の道が少しずつ分かってくる、とゆうことろから開けてくるおかげ、展開でなからなきゃならんと同時に、そうゆう精進とゆうものがです、心配する心で信心せよとゆうように、その心配とゆうものはね、もう事実かえるはずがない。
 勿論、金が足らんけんとゆったような心配で、五年も十年も、いつもその事ばっかり心配になるとゆう事じゃ、これは、もう、いよいよいけませんよ。心配がいっちょん向上しとらん。
 例えば今迄は、この位なことが腹が立ちよったと、ゆうような事がです、やっぱり五年経っても、十年経っても同じように、同じような事が腹が立っておる事では駄目だという事。腹はいつ立ってもかまわん。けれどもね、もっともっと高度な素晴らしい意味合いに於いての腹立ちであったり心配であったり、だから腹が立つたんびに信心が向上する。心配のたんびに信心が奥賀へ進む事が出来る。そうゆう心配でなからなきゃいけない事は勿論、「心配する心で信心せよ」そうゆう心配が、段々向上してゆく心配が果たして絶えず有るか、どうか。あるからこそ、縋らなければおられん、じっとしちゃおられない事になってくる。
 けれども、心配する心で信心する時にです。次に生まれてくるのは安心であり、いわば、ままよとゆう心。もう神様にお任せをしてとゆう、ままよとゆう心。ままよとは、もう死んでもままよとゆような信心が出来てくる。そこから、十二分の徳も、又、受けられるとゆう事になる。
 そうゆう徳の受けられるような信心がです、私共信心の内容に、徳はまだ受けておらんでも、そうゆう生き方になれば、徳が受けられるとおっしゃる。その徳を受けられる姿勢で、いつもおるかとゆう事なんです。
 なる程、「我情我欲を放れて真の大道を開き見よ」と、こうおっしゃる。その我情我欲を放れて、真の道を分かろうとする信心姿勢がです、果たして有るか、否や。
 いっつも自分は、新たな心配で、その心配する心を神様に向けて信心修行が出来ておるかどうかと。そうゆう内容がです、私共の信心の内容にあるならばです、神を商法に使っておるのじゃない。本当に信心の深さ広さとゆうものが、身に付いていきよるとゆう事が分かるのでございます。
 昨日、私がいっつも見せてもらうのはテレビのティ-タイムショ-の時間位ですけれど、萩のね、萩焼きの窯元の大将がみえて、萩焼きの説明をしておられました。
 なる程、萩焼きは、泥はよそから持ってくるんだそうですね。ですから、同じやっぱり茶碗がですね、その同じ泥を使ってあるから、京都でもやっぱりでけておる。けれども、それは、萩焼きとは言わん、萩茶碗と言う。出来るんだと、だから、そういう伝統を持った素晴らしい焼き物が出来る所なんですけれどもね、どんなに素晴らしい焼き物がでけてもね、それを使う人によって、名器になるもありゃならんもあると、言っておりますね。
 萩焼きとゆうのは、とりわけそうだと。七化けとゆうように、色がずうっと変化してゆく訳なんです。お茶ならお茶《に》使う、お酒ならお酒《に》使う。酒器でも茶器でもです、段々、色が変色してゆく、それが、なんとも言えん素晴らしい萩焼きの値打ちは、そこにあるんだそうです。
 だから、いかにそれを、永年大事にですね、使うかとゆう事によって、萩焼きの値打ちが決まると、言うておられましたのを聞いて、私は思うた。金光様の信心のごたると思うた。
 私は、何を見たり聞い〔たりし〕ても、すぐ金光様の御信心というふうに思うんですよね。そうなんですよ。いつも、精進しておる心があるなら、そういうふうに必ず何でも信心に見えてくるんです、と私は思うんです。信心も、やっぱりあれじゃろうとこういうふうに思う訳です。
 どんなに素晴らしい信心が、お道の信心が世界の名教だと言われてもです、只今申しますように、商法に神を使うような先生が何千、何万出来たってです、これは金光教のいわゆる名教たらしめきらんです。
 どんなに素晴らしい御理解を頂きよってもです、まあ、私のここの御理解は素晴らしいと自分で思います。ですから、どんなに素晴らしい御理解に浸っておってもです、それを受けて行じようともしない。しかもそれを育てる〔とゆう〕事にです、これを、とり落とさんように、割らんように。
 例えばね、色が変わりさえすれば〔よかと〕ゆうので、茶碗に醤油を入たりなんかして、色を付けたりするような人があるそうですね。そんな事じゃ、いかん。やっぱり、茶器はお茶を使う。お抹茶茶碗はお抹茶によって出る色、番茶は番茶茶碗、酒器は酒ですね、かんびんなんかは、やはりお酒によって出て来る色でなからないけない、とゆうように言っております。
 どんなに素晴らしい世界の名教だと、いわゆる金光教の常識一般を身に付けて、なる程金光様の信心とは素晴らしい。キリストが説きえていないところ、お釈迦さんが分かっていなさらじゃったところを、教祖の神様は、このように見事にです、天地の親神様からの信心をこのように見事に受けておられて、このように教えておられるとゆう事がです、それが分かっておっても、そうゆう常識が身に付いただけではです、それが金光教とは、こんなに素晴らしい信心ですよと話してあげられてもです、それでは、受け売りをしておるようなもんですから、神を商法に使うておるようなもんですから。
 いわゆる、本当の意味に於いてのおかげの展開にもならないし、それを名器とゆうところ迄です、立派にしていく事が出来ない。萩焼きなら、萩焼きをです、出来ないようにです、金光教をいよいよ名教たらしめる為には、どうでも、私共、教師、信者一同がですね、本気でいつも、我情我欲というものに取り組んで、我情我欲を放れる事に、真の道を分かる事に精進し、いつも絶えず心配があるとゆう信心。
 それは勿論、高度な心配、「一生が修行じゃ」と、おっしゃるが、なる程、そうだと。その心配がです、神様に縋らなければおられないとゆう修行の姿勢になり、そこから修行しなければ分からない体験が生まれてくる。真の道が分かってくる。そのようにしてです、いわゆる名教を名教たらしめてゆかなければね、私共は、神様に対しましても相済みませんし、お道の信奉者としての、私は、言うならば義務を果たすと事も出来ないとゆう事になるじゃないでしょうか。
 ですから、そういう、例えば、そんなら、それを、義務とまで思わせて頂く。これは、もう金光教の信奉者の義務だとゆうぐらいなところまで分からせてもらうところにです、おかげを頂く権利といったようなものが出来てくるんじゃないでしょか。当然、当然です、それこそ願わんでもです、神様が下さるおかげが、そこに展開してくる訳なんです。それで、腰かけるとゆう事であってはならない。勿論絶えずです、我情我欲に取り組んでの、真の道を分からせて頂こうとする信心。
 私は、信心を育てていくとゆう事はね、そうゆう事ではないかと思います。自分の信心を本当にお育て頂きたい、只、その精進をするとゆう事がです、それはもう、とりもなおさず、私は金光様の御信心を商法に使っておるのではないとゆう事に、言わばなる訳なんです。
 「世には神を売って食う者が多いが」と、やっぱ神を売ってから食う事だけ位はでけるとゆう事が分かります。受け売りだけでも食うていく事が出来る。「此方は、銭金では拝まぬ」金光大神、その方は、銭金では拝んではならない。
 いつも真の道を求め求め、いわゆる我情我欲を放れて、真の道をいよいよ極めておいでられておられます。ですから、御自身の御体験からです、こうゆう御理解を下さったんだと、私は思うのです。
 私共、お道の信奉者たる者がですね、そうゆう信心を頂かせて頂こうとゆうことろにです、名器が名器になってくるように名教を名教たらしめる事が出来るおかげ、そうゆうところにですね、名器を保存していく楽しみがあるように、お道の信心させて頂いておる事の喜びが感じられる信心を頂きたいもんですね。
どうぞ。